2011年3月30日水曜日

反原発と推進派、二項対立が生んだ巨大リスク

反原発と推進派、二項対立が生んだ巨大リスク:日経ビジネスオンライン
科学技術はリスクを生み出すものだ。ドイツの社会学者ニクラス・ルーマンはそう考えた。ルーマンは「危険」の対語を「安全」としない。「危険Gefer」と対置されるべきは「リスクRisko」だと考えた。彼が「危険」と呼ぶのは、いわゆる天災の類だ。それに対して、人間が関わることで発生する危険を、彼は「リスク」と呼ぶ。こうした危険とリスクは単に対立するわけではない。たとえば冷たい雨はそれに身体を濡らした人を病気にしかねない危険な存在だ。この場合の雨は人の力で降らせたり、止ませたりできないという意味でのまさに天災の一種である。だが、傘という「文明の利器」を人類が発明した時点で、この天災としての雨は性格を変える。雨に濡れて風邪をひくことは、傘を持たずに家を出た人の責任に帰せられるリスク=人災となるからだ。このように文明が、天災としての危険をリスク(=人災)に変質させてゆくと考える点がルーマンのリスク論の特徴だ。

危険とは天災の一種、リスクとは人災。
文明で危険をリスクに変質させることができるとういう考え方。

 そうした経緯を考えるとき、本当に選ぶべきものは(A2、B2)の選択肢だったのだ。推進派は反対派の主張に耳を傾け、従来の原発=絶対安全のプロパガンダを一旦取り下げてより安全で安心できる原子力利用の道がないか、もう一度検証しなおす。一方で反対派も原子力利用絶対反対の姿勢を緩め、リスクの総量を減らす選択を国や電力会社が取ることを認める。こうして両者が互いに僅かであれ相互に信頼することで開かれる選択可能幅の中でリスクの総量を最小化する選択肢を選んでいく。

(A2、B2)の選択肢、お互いの意見のいいところ同士で妥協できれば
今回のようなことにはならなかったんだろう。

安易な妥協はよろしくないが、
いがみ合ってばかりいてもなにも産まれない。

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